非所有の思想--いかにして経済的平等を達成するか
     ガンジーの言葉より

神は、その時々に必要なもの以上は決して創造されないということです。ですから、その人が本当に必要とする最小限よりも多くを、自分のものとして使用する人は誰でも、窃盗の罪を犯しています。
Ashram Observances in Action, p. 58,Edn. 1955

神は、日々、創造の業をされます。ですから、理論上、人もまたその日、その日を生きるべきであって、物を蓄えてはならないのです。
Harijan, 23-2-1947

「手離すことで富を楽しもう」この意味を拡大するとこうなります。「あらゆる手を尽くして、大金を稼げ。しかし、富が自分のものだと思うな。それは、人民のものだ。自分が必要とする正当な分量をとり置いたなら、残りは社会のために捧げよ」 
Harijan,1-2-1942

だれもが自分の能力を最大限発揮することができなくなるような、生気のない平等を達成したいとは思っていません。そのような社会は、いつかは消えていくしかありません。ですから、みんなへの奉仕に捧げるのであれば、お金持ちが大金を稼ぐ(もちろん正当な手段を用いることは言うまでもありませんが)ことは構わないとする私の提案は、全く健全なものであると考えます。「手離すことで富を楽しもう」というのは、万人に利益となる新しい生活秩序を展開する一番確実なやり方です。各人が隣人がどうなるかを考えることなく自分のためだけに生きている現在の生き方に取って代わることでしょう。
Harijan, 22-2-1942, p. 49

暴力を用いた流血の革命は一日の命でしかありません。金持ちが自発的に富を手放し、権力を差し出し、公益のために分かつようにならない限り何の役にも立たないです。あざ笑われながらも、信託制度という見解に固執しています。
Constructive Programme, Edn. 1948, p. 20-21

平等を達成するには、憎しみを生み、強化していくことが必要だと彼らは信じています。彼らはこう言うのです。「国家を掌握したら、平等を強制する」と。私の計画では、国家は人民の意思を実行するために存在します。人々に指図をしたり、国家の意思を人々に強制するためではないのです。私は、非暴力を通じて経済的平等を達成したいと考えます。つまり、憎しみに対抗するものとして愛の力を利用し、人々の考え方を私のような考え方に変えていくことを通してです。社会全体が私のような考えに変わっていくまで待つつもりはありません。そうではなくて、自らが直ちに第一歩を踏み出したいのです。
Harijan,31-3-1946

もし国家が力づくで資本主義を抑え込むならば、その暴力に由来する悪それ自体に捕らえられ、いずれにせよ非暴力を推進することができなくなります。国家が暴力を組織的に一手に握ることになります。個人は心を持っていますが、国家は心のない機械であり、その国家が暴力を存在基盤にしている以上、暴力から離れていくことはありません。そこで、私は信託制度の方がよいと思います。
The Modern Review, October, 1935, p. 412

私たちだってかつては、富者と同じ立場にいたということをいつも忘れてはなりません。私たちにとって容易な過程ではありませんでした。自分たちについて辛抱してきたように、それ以上に他の人について忍耐強くあるべきです。もっと言えば、私が正しくて、彼が間違っていると考える権利は、私にはありません。彼が私のようなものの見方をするようになるまで、私は待つ必要があるのです。・・・・
今日私が暴力を用いれば、間違いなく、さらに大きな暴力に直面することになるということです。非暴力を規範とすれば、人生は妥協の連続となるのが常です。しかし、果てしなく衝突が続くのよりは、よいことです。・・・・
他人を裁くよりはむしろ、この世に心を動かすことも、影響されることもないままにこの世で生きていくのがよいのです。自己を抹消するということが秘訣です。
Harijan, 1-6-1935

 ある個人がこのような生き方を取り入れることに不都合は何もありません。他の人々が始めるのを待つこともありません。そしてある行動規範を守ることが一人にできるのであれば、同じことを数人が集まってすることも問題なくできます。誰でも正しい道を歩むのに、誰か他の人が始めるのを待つ必要は全くないという事実を、私は強調する必要があります。目標を完全には達成できないと思われると、人は始めることを躊躇するものです。実際に進歩を阻む障害物となるのが、そのような心持ちです。
・・・
不可能が絶えず可能になっているのです。暴力の分野でなされる驚くべき発見に、我々はこのごろ常に眼を見張るばかりです。しかし私は、夢にも思い描かなかったような、不可能に思われるような発見が非暴力の分野でなされると考えています。
Harijan, 25-8-1940

ガンジーは、彼の考える経済的平等とは、全ての人が文字通り同じ額を所有することではないと答えた。「各自が必要なだけを持つというそれだけのことです。例えば、象は蟻よりも千倍多く食べます。しかし、それが不公平を示しているわけではありません。・・独身の男が、妻と四人の子を持つ男性と同じだけを要求するなら、経済的平等に反することになります。・・今日のような金持ちと貧乏人の間にある相違は、心の痛む光景です。
Harijan, 31-3-1946

労働者がいなければ資本家は全く何もできないということが、労働者に分かり、気づくことさえできれば、彼らは直ちに自分の足で立てます。・・・
「イエス」と言いたいときには「イエス」と言い、「ノー」と言いたいときには「ノー」と言えば良いのです。労働者は資本家から自由であり、資本家は労働者の機嫌をとらねばなりません。そして、資本家が拳銃やたとえ毒ガスを自由に使えたとしても、少しも問題ではありません。労働者が「ノー」という言葉を十分に活用して、自らの尊厳を宣言するならば、資本家はやはり全く手も足も出せません。そうなれば、労働者は報復する必要がありません。むしろ毅然として立ち、弾丸や毒ガスを身に受けましょう。それでもなお「ノー」を貫くのです。労働者がいつも負けてしまうのは全く次のようなわけです。つまり、私の提案に従って資本家という存在そのものを根絶やしにする代わりに、労働者が(私も労働者の一人ですが)資本を手に入れ、自らが最もたちの悪い資本家になろうとするからです。そのため、きっちり守りを固め団結している資本家は、労働者の中からも同じ任務につく候補者を見つけてきて、そういう人たちを使って労働者を弾圧します。この催眠状態に誘う魔法から本当に意味で自由になることさえできれば、我々は誰でも、男性でも女性でも、何の困難もなくこの根底に横たわる真理に気づくでしょう。・・・
自衛のための手段を何も持たないで死ぬ勇気がある労働者というのは、頭からつま先まで武具で身を固めた者よりもはるかに気高い勇気を示すことになると、私はあなたに申し上げます。
Young India, 14-1-1932, p. 17-8

十分な賃金が支払われない限り土地で働くことはしないと、ただこれだけを言うだけで、あわれなザミンダール(大地主)には何ができるでしょうか。
Harijan, 5-12-1936

次のことをはっきりさせます。つまり、土地はそれを耕す人のものだということです。地主が自分で全ての土地を耕すことはできません。ですから、小作人たちの正当な要求には従うしかないのです。しかしながら、別の小作人に取って換えられることがあるかもしれません。その場合は、暴力以外の闘争を行い、新しく雇われた小作人が自分たちの誤りに気づき、解雇された小作人と連携するようになるまでそれを続けます。このように、サッテャーグラハは、世論を指導するプロセスです。ですから、社会のあらゆる要素を含み、最後には圧倒的力となります。暴力は、社会構造全体を本当の意味で変革していくプロセスを邪魔し、長引かせてしまいます。
Harijan, 31-3-1946



所有しないということ
息子に宛てた手紙 1930年8月26日
 所有しないということは、盗まないということ同じである。もともと盗んだわけではなくても、必要のないのに所有している物はやはり盗んだものに分類される。所有することは将来に備えることである。真実を追い求める者、愛の規律に従う者は、明日のために何かを取っておくことなどできないはずである。神は、明日を考えて蓄えることは決してしない。神は、この瞬間に必要な物だけしか作られない。であるから、神が与えてくださるものに信頼を置くのなら、日毎の糧、つまり必要とするすべてのものを神が毎日与えてくださることを確信すべきである。聖者、信仰のあつい者は必ず、経験からこのことが正しいことに気づくのである。毎日必ず日毎の糧は与えるがそれ以上は与えないという神の法を無視し注意を払わないがために、不平等が生じそれに付随してあらゆる惨劇が起こるのである。金持ちは、必要もない物をあり余るほど持ち、そのためそれらのものは注意される事なく無駄にされてしまっている。一方で、何百万もの人々が食料も手に入らず飢えて死に瀕している。もし、各自が必要とする物だけを持つようにすれば、誰も欠乏する者がなく、みんな満足して暮らせる。実際、金持ちも貧乏な者と同じくらい不満の固まりである。貧しい者は億万長者になろうと欲し、億万長者はさらにもっとすごい億万長者になろうとしている。貧しい者は、たとえ毎日の必需品が手に入ったとしても、もはや満足しない。もちろん、毎日の生活に必要なだけの物を手にする権利が彼らにはある。そして、彼らがそれを満たせるよう助けるのが社会の義務である。金持ちは、満足の精神が世界中に行き渡ることを考えて、率先して物を手放すべきである。彼らが、自分たちの所有物を適切な範囲にとどめておきさえすれば、飢える者たちは容易に食料を与えられ、金持ちの行いから満足するとはどういうことかを学ぶことになるのである。
 所有しないことの完全な理想的状態は、人間が鳥のように、頭上に屋根を持たず、装わず、明日のための食料も一切貯蔵しないこととなるであろう。日毎の糧は間違いなく必要なものではあるが、それを与えるのは神の仕事であって、人のやることではない。仮にできたとしても非常に非常に非常に少数の者にしか、この理想の状態に到達することはできないであろう。凡人である我ら求道者は、不可能に思われるからといって挫けてしまうことはない。そうではなくて、この理想を常に我らの前に置き、そしてその光の元で自分たちが所有している物を厳しく吟味し、所有物を減らすように努めるべきである。文明は、その本当の意味では、増し加えることではなく、意図的、自発的に欲望を減らしていくことである。このことのみが、本当の幸福、満足をもたらすことができ、奉仕の器を広げることができる。この基準から判断すると、アシュラムで我々はは、必要性が証明できない多くの物を所有していることがわかる。そこで、我々は近隣の者たちがこっそりと盗んでいけるように仕向けている。もし人がやろうと思いさえすれば、自分の欲望を減らすことができ、欲望が減るにつれて、人はより幸福になり、より多くの平安が得られ健康も増進する。純粋な真理に立つならば、体もまた所有物である。快楽を求める欲求が魂のために体を造り、それを保っていると言われているが、全くその通りである。この欲求がなくなると同時にもはや体を必要とすることもなくなり、輪廻の悪循環から開放されるのである。魂は時空を越えるものである。どうして檻のような体に入れられることを好むであろうか。さらには、その檻のために悪いことを行ったり、殺人を犯すようなことを好むであろうか。このようにして、我々は完全な放棄という理想に到達し、体をそれが存在する限り奉仕のために用いることを学ぶようになる。そして、ついにはパンではなく奉仕が我々にとって命の糧となるのである。奉仕のためだけに我々は、食べ、飲み、眠り、起きるのである。心をそのような状態にすることで本当の幸福がもたらされ、定めの時に喜ばしい光景を目にすることができるのである。我々は皆この観点から自分自身を顧みるべきである。
 所有しないということは、物だけでなく思考にもあてはまることを覚えておきなさい。どうでも良いことで頭を一杯にしている人は、その計り知れない原理を破っている。我々を神から離れさせる考え、我々を神に向かわせない考えは不要の所有物である。それらは我々の行く手を遮る物となる。この関連から我々は、ギ-タの13章にある知識の定義を考えてみよう。そこでは謙遜(amanitvam) こそ知でありそれ以外のものはすべて無知であると言われている。もしこれが真実であるならば、そして真実であることに疑いの余地はないのだが、今日我々が知識と思っているものの大半は単なる無知に過ぎない。そして、それ故、何らかの利益を与える代わりに害をなすのである。そのような知識と思われているもののために、精神はさまよい、目的を失ったものとなってしまっている。そして、不満が蔓延し、悪の種は尽きることがない。言うまでもないことだが、私は何もするなと言っているのではない。人生の何時いかなる時も、心または体が活動している。しかし、その活動はSATTVIK であるべきだ。つまり真実へと向かうものでなければならない。人生を奉仕に捧げようと決心した者は一時たりともぼんやりしていることはできないはずだ。しかし、我々は活動において善と悪を区別することを学ばねばならない。ただ奉仕にのみ献身していく中で、おのずとこのふたつの区別がつけられるようになっていく。


自発的貧困(ガンジーの演説より)
1931年9月23日 ロンドンにて
私の口からこのようなことを聞けば驚かれるかもしれませんが、見たところ私の使命は政治にあると受け取られておりますが、その根は、もしこのような言葉を使うのが許されるのでしたら、精神的なものにあると私は確信しています。よく知られていることのようではありながら、あまり真剣には信じられていないようですが、少なくとも私の政治的信念は、道徳、精神、宗教と分かつことのできないものです。私はそのように主張してまいりましたし、その主張は私の広大な経験に基づくものです。つまり、神を発見しその意思に従おうと努力している者は、人生のある一部分でも神と関わらないままにしては置けないものです。また、道徳、真実、神を畏れる気持ちが重要でない分野が人生のある分野に存在するなら、その分野は完全に捨て去らねばならないという結論にも奉仕をしていく中で達しました。
 しかし、今日の政治は、もはや国王だけの関心事ではなくなっています。そうではなくて、社会のもっとも貧しい階層に影響を与えるものです。そして、苦い経験から分かったことですが、もし私が社会的な奉仕をしたいのであれば、政治だけをそのままにしておいてはそのような奉仕すらほとんど不可能です。
 今晩私が皆さんに政治のことを語り、なんらかの方法で自発的貧困を政治と結びつけようとしているのだとは受け取らないでください。そのようなことは私の意図していることではありません。私はただ、社会のために働く者、あるいは政治家達にとっては自発的貧困が必要事項であるとどのようにして信じるように至ったかを皆さんにご紹介したいだけです。今日普通の政治で見かけられる醜い不道徳、不真実から免れたいと思うのであればこれは必要なことです。そのような醜い生活が放つ悪臭のためにあまりにも窒息しそうであるがゆえに、政治は神を畏れる者がやることではないと結論づけるような者までいます。
 もしそれが本当であるなら、人類にとっては悲劇と言う他ありません。ご自分で確認してみてください。私が今語っている光に照らして、今皆さんがこの世界最大の都市の1つで行っているすべての活動が直接あるいは間接的に政治と関わりを持っていないかどうかを。 
 さて、私が政治の渦に巻き込まれていった時、不道徳、不真実さらには政界に身を置くことでもたらされる特権というものに全く影響されないでいるためには私には何が必要かを考えました。
 そうして探していく中で、いくつかのものを発見しました。今晩はそれらについて取り上げることはできません。しかし、もし私の記憶違いでなければ、この貧困であることの必要性というものがまず最初に私の頭にひらめきました。
 自ら富を捨てるという行為、行いの一部始終をここで再現するつもりはありません。興味深いことではありますし、私にとっては神聖な行いではありますが、私に言えるのは、それは最初のうちは困難な問題と格闘することであると言うことだけです。妻との格闘であり、また生き生きと思い出せるのですが、子ども達との格闘でもありました。
 それはそうとしても、私が命を捧げた人々、その人たちの困難な状況が毎日目に入ってくるその彼らのために尽くすのが使命であるならば、私はすべての富、所有物を手放さねばならないという確固とした結論に達しました。
 この信念を私が持った時に、私はすべてのものを直ちに手放したと真実を持って語ることはできません。最初のうちはとてもゆっくりでしかなかったということを告白せざるを得ません。そして今、その当時の奮闘ぶりを思い出しておりますが、最初のうちは困難を伴ったものでした。しかし、日が経つにつれて、私は自分のものと考えていた他の多くの物も放棄せねばならないということが分かってきました。そして、それらのものを放棄するのが積極的な意味での喜びとなっていきました。そして、次から次へとほとんど加速度的に物が私の手を放れていきました。そして、この経験を振り返って見て私は言えるのですが、その結果私は肩から重荷を下ろすことができました。ゆったりとした気持ちで散歩もできますし、仲間に奉仕する仕事も楽にしかも大いなる喜びをもって成すことができます。そうなりますと、何であれ物を所有するということは、厄介なこと、重荷となってきます。
 そのような喜びの源は何であるかと考えていきますと、もし、私が何かを自分だけの物として所有すれば、それを取られないように世界中を相手に守らねばならなくなるということに思い当たりました。そして、またその物を欲しがっていながらも、手に入れることができないでいる者が多数いることにも気づきました。そのような状態でもし私が一人でいるところを空腹の飢饉におそわれた人々に見られ、彼らが私から施しを受けようとするのでなく、物を奪い取ろうとした場合、私は警察の保護を求めねばならないのです。そこで私は自分に言い聞かせることにしているのですが、もし彼らがそれを欲しがり取るのであれば、彼らが私に危害を加えたくてやっているのではなく、彼らのほうが私よりもそれを必要とする度合いが高いからなのです。
 さらに、私はこう思います。物を所有するということは私にとっては犯罪に思われます。同じようなものを欲しがっている他の人々もその物を所有することができるときのみ、私はその物を所有することができるのです。経験から言って誰にも分かることですが、そのような物は存在しません。ですから、すべての人が持つことができるのは、非所有です。何であろうと物を一切持たないということです。つまり、自発的放棄です。 
 そこで皆さんはこのように言うことでしょう。でも、多くの物を身に付けているではありませんか。たった今自発的貧困だの、一切のものを所有しないだのと言っていたところだというのにと。私がたった今言ったことの意味を表面的に解釈するならそのような批判も正しいことでしょう。しかし、私が言いたいのはその背後にある精神的なことです。身体がある限り、何らかの身にまとうものを所有しないわけにはいきません。しかし、その際手に入れられるだけいくらでも身にまとうために所有してよいというわけではありません。そうではなく、もっとも少なく、何とか賄えるだけの最低限の数だけを所有するようにすべきです。自分が住まうためにも、大邸宅をいくつも所有するのではなく、何とかやって行ける最低限の屋根を確保するようにすべきです。食物、その他のものについても同様のことが言えます。
 これについては毎日のように意見の衝突があります。今日我々が文明として理解しているものと、至福の状態、もっとも望ましい状態と私が思い描いて見せる状態との間に隔たりがあるのです。一方では、文化、文明の基礎はあらゆる欲望を拡大していくことと理解されています。部屋を1つ所有すれば、もう1部屋欲しくなり、さらにもう1部屋と多ければ多いほど楽しいということになります。同様に、家に入るだけのより多くの家具が欲しくなります。そしてこのようなことは際限なく続いていきます。そして、所有物が多ければ多いほど、文化が豊かなことを示しているなどと考えられているのです。そのような文明を良しとする者はもっとうまく説明することでしょうが、私は自分が理解しているところに従って説明しています。
 そして、他方では、所有物を減らせば減らすほど、欲求も減り、人格者となっていけるのです。何のための人格者かと言えば、この世でおもしろおかしく暮らすためではなく、仲間のために個人的に奉仕することを喜ぶためです。身体も心も魂も含めて自分自身を捧げる奉仕のためです。
 ただしこれには偽善、偽りが入り込む余地が十分にあることに気づくでしょう。人というものはたやすく自分自身を、また隣人をも騙してしまうことのできるものだからです。「心の中では私は所有するものをすべて放棄しているのですよ。ご覧の通りこれらのものは私の持ち物ですが、私の行いを見て判断しないでください。私の意図していることから判断してください。この私の意図においてのみ、私はただ一人の証人であり続けるのです」などという時がそれです。これは罠です。それも死へと至る罠です。長さ2~4ヤ-ド、幅1ヤ-ド程の布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。何らかの方法で身体を覆うためにそれだけの布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。もしその布切れを置いたままにしておけば、そのような物であっても誰かが取って行くだろう事を知っている場合、ここでも危害を加えるためではなく、たったそれっぽっちの布切れであっても彼は持っていないのでそれが欲しくて持ち去るわけですが、そのようなことが分かっていてどうしてその布を持つことを正当化できるでしょうか。私は見てきました。この目で見てきたのですが、何百万もの人々がたったそれだけの布すら持っていないのです。何も所有すまいという意図がありながら、これを所有するという行為をではどうして正当化するのでしょうか。
 さて、人生におけるこのジレンマ、この困難、この矛盾を解決する方法はあります。これらのものを所有せねばならないとしたら、それを欲しがる者が自由にできるようにすべきです。つまりこうするのです。誰かがやってきてその布切れを欲しがれば、それを彼に渡さないようにするのではありません。ドアを閉めたり、これらの物を持っていられるように警察を呼んで助けてもらったりなどしてはなりません。
 この世が与えてくれるものだけで満足すべきです。この世があなたにその布切れを与えることもあれば、与えないこともあるでしょう。と言うのも、もし何も所有しないのであれば、当然のこととして、衣類や食糧を買うお金も所有しないということになるからです。そこで、この世の施しにのみ頼って生きることとなります。そしてたとえ心有る人が何かを施してくれても、それはあなたの所有物とはなりません。それを欲しがる者がいれば誰にでも与えるというつもりで、それだけを予定して預かっているだけなのです。もし誰かがやってきて、力で無理やり物を取り上げたとしても、警察署に行きそこにいた警官に襲撃を受けたと報告してはなりません。襲われるということはないのですから。
 さて、これが私の言う自発的貧困ということです。理想的な状態をお話しました。ロイデン博士1 は私が自発的貧困を示す世界で1番良い例だと言ってくださっています。私は、謙遜して申し上げますが、そのような言われ方に全く値しないものです。このことはただ単に自分を卑下するためだけに言っていることではなく、本当のことであると心から思って言っています。私が考える自発的貧困のほんの一部分を述べたにすぎませんが、その理想を完全に達成したとはとても言えないのが今の私の状態です。この理想を完全に達成するためには、私の心に確固とした意図、確信がなければなりません。地球上にある何物も自分の所有物とはしたくない、してはいけないという確信です。この身体さえもそうです。というのもこの身体も所有物だからです。
 もし、私と同じ信仰を持っていてくださるならば、教会に行く方でしたら、つまり神の存在を信じる方でしたら、身体と魂は1つの同じものではなく、身体は魂、霊が一時的に宿るための宮に過ぎないということを信じていらっしゃることでしょう。もし、そのことを信じていらっしゃるならば、信じていらっしゃると私は理解しているのですが、そのことから、身体でさえも私達の物ではないと言うことができます。一時的な所有物として与えられているに過ぎません。それを与えてくださった神様が、またそれを取り去ることもできるのです。
 ですから、私の中に断固として信念がありますので、次のようなことが私のいつも心に抱いている願望です。この身体もまた神の意思に屈するものである以上、私が自由に使える間は、愚かなことをしたり、勝手気まま、快楽を追求するためではなく、ただ奉仕のためだけに使うべきと心得ます。身体が起きている間はすべて奉仕をすることにこの身体を用いたいと思っています。
 もし、このことが身体に関して真理であるならば、衣類その他私達が用いる多くの物についてもさらにもっと真理であるに違いありません。
 このような確信に至り、この確信を何年間も持ち続けていながら、私に不利となる証拠として自分をここにさらしています。自発的貧困の完全な状態に私はまだ至っていません。私は貧しい者です。理想に到達するために格闘するという意味での貧しさです。私達が日ごろ貧しいという意味で使っている意味での貧しさではありません。
 実際、私はある人から論戦を挑まれたことがありますが、その時私は隣人、さらには世界中の人々に対して自分は世界一豊かな人間のようだと主張することができました。というのも世界一豊かな人とは何も所有していないのに、すべてのものを自由にすることができる人のことを言うからです。
 可能な限り完全にこの自発的貧困の誓いに従った行動を実際にとる者は、(全く完璧な状態に至ることは不可能ですから、人ができる最高限度ということになりますが)そのような意味での理想的な状態に到達できた者は、その証言するところによれば、所有する物すべてを手放すと、世界中の貴重な物すべてが本当に自分の物となります。別の言葉で言えば、実際に必要とする物はすべて本当に手に入れられます。もし食物が必要ならば、食物が届けられます。
 皆さんの多くは祈りの人でしょう。そして私は、大変多くのクリスチャンが祈りの応えとして食物が与えられ、すべてのものが祈りに応えて与えられたと言うのを聞いています。私はそのことを信じます。しかし、私とともにもう1歩踏み出していただきたいのです。地上のすべての物、肉体も含めたすべての物を自発的に捧げた者は、つまり、すべてを捧げる用意にある者は、(批判的に、断固とした態度で自らを顧み、いつも厳しい判断を自分自身に下すようにすべきですが)これらのことが徹底的にやれた者は、欠乏状態にあるということが決してありません。
 皆さんに告白しますが、神が自分に富を分け与え賜われたと考え、私が多くの物を所有していた時、今日ほどには、私は物を所有する手腕に長けてはいませんでした。当時は、私は奉仕のために必要とするお金などすべての物を取り扱う才能が今の百万分の一もありませんでした。
 私が法律業を営み、お金を稼ぎ幾ばくかのものを所有していた当時にあっても、奉仕の気持ちは持ってはいました。しかし、その当時は奉仕に必要なものを何でもかんでも手に入れてくる才能は確かにありませんでした。しかし、今日では、(私にとって良いことか悪いことかはわかりませんが、神のみがご存じでしょう)次のように証言することができます。私は1度として何かが足りなかったということがありません。
 自分の意思で本当に物を手放し、何かを自分のものにしたいという欲求がなくなり、私が持つすべての物を周囲の人々と共有しはじめるという段階を経て、(私は全世界の人々とすべての物を分かち合うことはできませんが、もし私が周囲の人々と分かち合えば、それは全世界の人と分かち合うことになります。私の周囲の人も同じことをするからです。もし私たちがそれを行えば、それこそ万能ではない人間にできる最大限のことです。)しかし、すぐに私はかなりの程度までそのような状態に達することができました。つまり、何かが足りなくて困ったなどということが1度もないのに気づきました。
 足りないということは、ここでもまた文字通りに解釈してはなりません。神は地上では出会ったことのないほど厳しい仕事割り当て人です。そして、神は何度も何度も試みに会わされます。そして、信仰がなくなりそうになったり、身体が挫けそうになったりして、沈み込んでいっていると、なんらかの方法で神は救いの手を差し伸べてくださいます。そして、信仰を失ってはならないことを証明してくださるのです。いつも神は招きに、神を呼ぶ声に応えてくださいます。しかし神には神のやり方があって、私たちのとは違うのです。そのようなことを私は発見しました。最後の最後になって神が私を見捨てたような出来事は、本当に1つも思い浮かびません。そして私はこのような名声を得るに至ったのです。今ここでもう1度申し上げましょう。インド最大の物乞いという名声です。そして、私を批判する者が言うように、私はある時1千万ルピ-もの額の募金を集めました。ポンドではいくらに相当するのかわかりませんが、とてつもない金額です。(約75万ポンド)しかし、その金額を集めるのに苦労はありませんでした。そして、その時以来、緊急の必要が生じるといつでも、どの案件においても、私の記憶のどこにも、奉仕に必要なものが何であろうと手に入れられなかったような例は1つとして思い浮かびません。
 しかし、これは祈りに対する応えだと言われることでしょう。祈りに対する応えというだけではありません。これは所有しないという誓い、自発的貧困の誓いがもたらす科学的結果です。どんな物でも所有しようという気がなくなります。そして生活を簡素化すればするほど、所有物を放棄すればするほど、自分のためにより良い結果をもたらします。
 すぐにそのような状態になり、何でも自分の自由にすることができるようになります。自惚れることもなくなります。しかし1度でも物を自分の持ち物とすれば、たちまちにこの力は失われます。自分のために取り込んではなりません。もしそれをすれば、もうおしまいです。このような例をもう何度も目にしてきました。次のような言い方をした者が多くいました。「やった、神がやっと祈りに応えてお金や物をくださった。さあ、これを自分の物としよう。この最高級のダイアモンドまた他の物もこれは私の物だ。」これでもう最後です。この人はそのダイアモンドを守ることはできません。
 ですから、私が今皆さんにすばらしいものとして約束したことは、奉仕のためならあらゆる資源を自由にすることができるということです。信じない者にとっては尊大な言い方に聞こえるかもしれません。しかし、私は信じているのですが、奉仕のためには地上のすべての物を自由に使えると言うのは尊大な言い方ではありません。もちろんそれは各自の奉仕する能力に応じてです。この世で完全な奉仕をしたいと思えば、イ-ストエンド(ロンドン東部の貧民街)のある家まで出かけて行って、そこに住む者の中から貧困に喘ぐ人々を見つけ、顔に向けて小銭を投げてやるだけでは足りません。そんなことのためには世界のあらゆる物を自由にすることなどできません。神はあなたの顔にも小銭を投げかけることでしょう。
 しかしもし、自らを、身体も魂も精神も投げ出し、この世のために捧げたならば、そうすれば私は次のように言うことができます。この世の宝があなたがたのもとにあります。皆さんが楽しむためではなく、そのような奉仕を楽しむためです。その奉仕をするためだけにあなたの物となったのです。
 私が皆さんにお話していることから導き出してもらいたい倫理観は、今の時代が本当に必要としているものです。この国の困難な状況に対して私は心から同情を寄せているという時に、どうか私は本心から言っていると信じてください。皆さんの財政的な問題について解決法を示すことは私にはできないことです。皆さんは立派な方々です。自分たちで解決法を見つけるだけの恵まれた資質も十分におありになります。しかし、今日の貧困と関連して、今私が述べたこの考えを自分の頭の中で思い巡らせてくださいということを皆さんにお願いしたいと思います。
 C.F.アンドリュ-氏が私にある手紙を見せてくれました。首相が記者に書き送った手紙で、昨日氏が言うところでは鉄道で、おそらくは地下鉄でも宣伝として使われているそうです。これには大体次のように書いてあります。「英国製のものだけを買いなさい。英国人の労働者だけを雇いなさい。そしてできるだけたくさん買物をしよう」確かにこれは1つのやり方です。しかし私は、世界の貧困を解決するためには、この自発的貧困という考えが根本にあるべきだということを皆さんに提案したいのです。皆さんは恵まれた資質をお持ちですから、きっと困難を乗り越えていかれることでしょう。そしてやましいことは何もないとお思いになることでしょう。もし、言わせていただけるなら、おそらくそれは近視眼的なことでしょう。と言いますのも価値観の変換を迫る時は既に来ているのではないでしょうか。
 しかし、ここでも深みにはまるわけには行きません。奉仕のために自発的貧困が必要であるとする考えにご賛同いただける方にこのような暗示を示すことしか私にはできません。この恵みの賜物を今晩皆さんが受け入れてくださることを求めてお伝えしているのではありません。もちろん、付け加えさせていただきますが、心の最も深い部分では、私は、世界が間違ったままつき進むことはないと感じています。もし私たち皆が自発的貧困の誓いを立てるならば、愚か者の世の中になってしまうことはないでしょう。しかし、それはほとんど不可能だということもわかっています。神にとってはどんなことでも不可能ではありません。しかし、人間的立場に立てば、これは不可能なことだと言うのが懸命でしょう。しかし、実際には不可能ではありません。自分のすべてを仲間への奉仕に捧げた者は、自発的貧困の誓いを立てるべきであるのは全く当然のことであると私は考えます。
 この方法をとることで今日直面するこの国家の一大事を解決するのに本当に実質的なところで役に立てないかをどうかご自分で考えてみてください。
 給料やその他差し出すように要求されるものを人々が差し出したくないので、法律でそれらを差し出すように義務づけても、問題の解決には至らないでしょう。「私たちに何ができましょうか。反逆はしたくないし、できようもないのです」と彼らが言っている間は、彼らはまだ心の中ではこれらの物を熱望しているのです。
 しかし、想像してみてください。このような熱望状態にある中で、自ら求めて貧しくなった奉仕者の一団が立ち上がるのです。強制的な貧困しか知らないために、自発的貧困がどういうものか知らない人々を導く灯台のような役割をこれらの人々は果たすようになることでしょう。お腹を空かしている仲間のところに行って、自発的貧困について語るといったことを私はするつもりはありません。その強制された貧困を自発的なものに変換できれば、どんな恵みがあるかを彼らに語るつもりはありません。この地上では、そのような種類の魔法などはありません。その過程は痛みを伴うものです。それに、これらの人々はまず何よりも生きるのに必要なものを確保する必要があります。それからでないと私は自発的貧困の話を彼らにすることはできません。
 やれることは次のようなことです。私のような者が彼らの中に加わります。できるだけ彼らの中に入り込んで生活をします。そうすることで彼らの心に希望の光が差し込めるのです。私のような者が提案する解決法を彼らは受け入れます。すぐ解決がもたらされるような方法が提案できない場合でも、少なくとも彼らは私の中に友人を見出すでしょう。彼らは言うことでしょう。「この人は何も持っていないのに幸福である。どうしたことだろうか」と。私は彼らと議論する必要はありません。彼らは彼らのうちで議論を始めることでしょう。
 この私の経験から来る豊かな宝をどうしたら地上のすべての人と分かち合うことができるでしょうか。それはできません。しかし今日、自発的貧困について語ったことで、ある一定の限度においてではありますが、この宝とも言うべき私の経験をここにいらっしゃる数百名の方々とは言わず実際何百万もの人々と共有しているわけです。言葉では言い尽くせない、無上の喜び、幸福、力をこの自発的貧困は人に与えてくれます。私に言えるのは、始めてみてください、自分で実験し試してみてくださいと言うことだけです。
 私の話にご傾聴賜わりどうもありがとうございました。祈りの時間に入るまでにちょうど10分あります。私に質問のある方がいらっしゃいましたら、喜んでお伺いします。思っていらっしゃることが何であっても質問するのをためらう必要はありません。どんなことであっても質問されて私が怒るようなことはありません。聞きにくいことでもそのままで構いません。

Q 自発的貧困を実践したイエス、釈迦その他の偉大な宗教の指導者が1度として大金を要求したり、受け取ったりしたことがないのに、どうしてマハトマは大金をかき集めることを正当化できるのですか。私はこのことと、マハトマが我々に語った他のことが矛盾しているように思えるのですが。
A これらの優れた指導者たちは、お金を要求したり受け取ったりしたことがなかったのでしょうか。イエス以降多くのクリスチャンたちは、彼らもまた貧困の信仰を持つものでしたが、お金を手に入れ奉仕のためにそれを用いました。そして釈迦についてはもっと自信を持って語ることができるのですが、彼がまだ生きているうちに僧院を設立したと伝えられています。お金がなければ僧院を設立することはできるわけがありません。自らの身体、魂、心を捧げた人々は、富をも捧げ、それを釈迦の足もとに差し出したということです。釈迦はそれを喜んで受け取りましたが、自分のためにではありませんでした。

Q どうして私たちは仲間に仕えなければならないのですか。
A  彼らを通して神のほのかな光をちらりとでも目にするためにです。彼らもまた私たちと同じ精神を持つものです。そのことを私たちが知らない限り神と私たちの間に壁が築かれるのです。もしその壁を取り壊したいと願うのであれば、仲間と完全に一体化することから始めねばなりません。

フランシスコ協会の協賛で行われたロンドン市庁舎教会でのスピ-チ
ロンドン市庁舎 1931年9月23日

1 革新的社会改革者のモウド・ロイデン博士が司会を勤めた。

©2000 Kayoko Katayama

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