本当の富とは何か?

 日本には大量の預貯金があるから、赤字財政は問題ではないと、主張している方がいます。本当かな??と、私などは理解できないのですが、しかし、そもそもお金が富なのでしょうか?

 老後には夫婦で2000万円の蓄えが必要だと、報道されたりもしていましたが、仮に蓄えがあったとしても、お金がある日突然、紙屑になったら、一巻の終わりです。そして、そういうことが起こり得ることを歴史が証明しています。

 お金の価値は絶えず変動します。お米の価値は値段をつけると変動しますが、本質をとらえるなら、60キロあれば、人が一人一年間生きていけます。60キロのお米=1年の命です。これには、変動がありません。お米に代表される命の糧こそ、人間にとって本当に必要なものであり、それが保証されていることが、本来の富であるはずです。

 田圃に稲が実り、畑に作物が育ち、川には魚が泳ぐ。そのような国土を持っている国こそ、豊かな国です。空気や水や大地を汚染しない国こそ、豊かな国です。

 とすれば、食料自給率がきわめて低い日本は極めて貧しい国となるでしょう。世界的な飢饉が起これば、どんなにお金を積んでも食料を輸入することはできなくなります。そのためにパンや麺類が食べられなくなれば、米は足りなくなるでしょう。そして、米の値段は天井知らずに高騰していくことでしょう。

 財政赤字が深刻化している昨今ですから、お金にあまり振り回されず、むしろ、命の糧を確保することに一生懸命になる方が、これからの時代は賢い生き方かもしれません。

 

お金の本質

 ジョン・ラスキンというイギリスの経済学者が書いた『この最後の者にも』という本に、お金の起源についての興味深い記述があります。

 無人島にAさんとBさんが流れ着き、二人で暮らしていました。ある年に、Aさんが病気で働けなくなったので、BさんがAさんの畑の面倒をみました。Aさんは、病気が治ったら、今度はAさんがBさんの畑の世話をすると約束しました。この約束を記した紙がお金です。つまり、Aさんは病気の年にBさんにお金を払って、働いてもらったのです。

 翌年、Aさんの病気は治りました。2人とも働くことができる状態に戻りましたが、Bさんは働きませんでした。AさんがBさんの畑の世話をするという約束があったからです。つまり、AさんはBさんからもらったお金を持っていたからです。

 お金を持つということは、自分は働かないで、人を働かせることができる権力を持つということです。だから、みんなお金が欲しいのです。

 Aさんの病気が治ったのであれば、AさんとBさんの二人が働けば、それだけ多くの作物を収穫できるはずです。でも、お金を持っていたBさんは働きませんでした。その分、Aさんの労働は過酷になります。収穫量も二人で働く時よりは減ることでしょう。

 経済的な格差があればあるほど、このような状態がひどくなります。そして、経済的格差は、他人を働かせることで自分は楽をしたいという思いから生じていますし、そこからお金が誕生しているのです

 

『この最後の者にも』

 『この最後の者にも』という本は、聖書に出てくる葡萄園の労働者の物語からタイトルが付けられています。聖書に次のような物語(マタイの福音書20116)が記されています。「葡萄園が収穫の時期を迎えた時に、葡萄園の持ち主は朝何人かの労働者を雇います。人手が足りないので、お昼ごろにも人を雇い、さらに夕方の5時にも人を雇いました。午後6時に一日の仕事が終わり、すべての人に1デナリオンの賃金を払ったのです。朝から働いていた人が、『私は朝からずっと働いていたのに、最後の1時間しか働いていない人と同じ1デナリオンは不公平ではないですか』と文句を言います。それに対して、この葡萄園の持ち主は、『あなたは朝、1デナリオンで約束して、納得していたではないか。自分のものを受け取って帰りなさい。でも、私はこの最後の者にも、1デナリオンを払いたいのだ』というのです。」最後の者は、働きたくても、働けずに5時までの時間を過ごしていたのです。

 1デナリオンというのは、当時1日働いて1デナリオンもらえれば、満足のいく額だったそうです。ですから、不当に安い労賃というわけではありません。でも、1時間だけで1デナリオンもらった人がいるので、朝から働いた人には不満だったわけです。確かに今の世の中の常識で言えば、働いた時間が違うのに、同じ金額となると、不公平と思うのが当然かもしれません。

 しかし、この世界が本当に愛に満ちたものになっていくためには、こうでなければならないと、聖書は私たちに教えています。

 世の中にはいろいろな人がいます。健康に恵まれて、バリバリ働ける人もいますが、体が弱かったり、障害があったり、世話をしなければいけない赤ちゃん、介護しなければいけない家族を抱えている人もいます。皆が皆フルタイムで働けるわけではありません。しかし、人が一日生きていくためには、みんな同じように、食事もしなければいけませんし、衣服や家も必要です。それならば、労働時間の多少に関わらず、等しく分けあったらよいではないかというのが、この物語の背後にある考え方です。

 無茶苦茶なようにも思えますが、もし、こういう社会が実現できたら、私たちは、もっと安心して暮らせるのではないでしょうか? 老後のことが心配で、今すぐ必要ではないお金があったとしても、困っている人に差し上げるよりは、貯蓄することになりがちです。でも、年を取って働けなくなったら、支えてもらえるという安心感があれば、今よりもっと分かち合うということができて、より多くを分かち合える分、豊かに暮らせるはずです。そして、本物の安心を手にすることになるはずです。

 そのためには、こんなに頑張ったのだから、こんなにたくさん働いたのだから、より多くもらっても良いのだという思いを手放すことです。贅沢をする権利があるという思いを手放すことです。

 ガンディーは、たくさん稼ぐのは構わないが、自分が必要とする最低限のものを確保したら、残りは社会のために奉げなさいと主張しました。富に執着しない生き方を目指しなさいというのです。富を求めるような欲望を捨てて、欲望を愛で置き換えなさいと主張しました。

 

信託制度

 ガンディーは信託制度ということを主張して、お金持ちは、自らが必要とする以上の余分な富を社会のために捧げるべきだと主張しています。しかし、暴力革命は否定しています。暴力で無理矢理奪っても、果てしない暴力の応酬になるだけだからです。だから、お金持ちたちの良心に訴えて、自ら不要な富をすすんで手放すように促したのです。非暴力を説いたガンディーは、生温いと批判されながらも、資本家たちの改心を迫りました。

 ワーキングプアという現状がある一方で、投資をするだけでお金がお金を生む仕組みの中で、働かずに生きているお金持ちもいます。だから、お金持ちから富を奪えばよいと考えたくなる気持ちも分かります。日本には預貯金が何兆円もあるではないかという主張も、おそらくそこから来ているのでしょう。

 しかし、ガンディーは、豊かな人が自らすすんで富を手放すことを期待しましたし、そのように人の心を変えていくことに重点を置きました。葡萄園の労働者の例え話にあるように、お互いの弱さを認め合う平等を目指したからです。富に執着してしまうという資本家の弱さも認めて、改心するまで辛抱強く説得する道を選んだのです。

 

弱さを認め合うこと

 1時間しか働いていない人にも1デナリオンの賃金が与えられたように、弱さを認め合い、補い合える人間関係を築くことが、皆が幸せになれる暮らしを実現するためには不可欠です。休むことも保証されなければなりません。疲れた時は、休ませてもらいたいですし、人に頼る時があっても良いと思います。

 しかしそれが、家族などの少数の人に対する一方的な依存関係になっては大変です。ミツバチが一つの花からだけ蜜を吸ったのでは花は枯れてしまいます。ミツバチがいろいろな花から蜜を吸うことで、花は受粉ができ、ミツバチは蜂蜜を作ることができます。このような共存共栄のやり方を、私たち人間も知恵を絞って作っていくことができるはずです。

 人間は一人では生きていけません。互いに頼りあって初めて生存できます。しかし、頼れるところが家族だけになってしまうと、つまり福祉制度が存在しなかったら、どんな家庭に生まれるかで運命が大きく左右されてしまいます。それを是正するためにいろいろな福祉の制度が整えられてきました。

 

世代間の不平等

 ところが最近は、日本の財政が厳しくなり、受益者負担の方向に舵がきられようとしています。福祉が貧しくなり世代間に格差が生じています。ロスジェネの世代の方々の中には、自分たちは正規雇用も限られている上に、年金の財源も破綻しそうだからと、先行世代への敵意を抱く方もいます。あまりにもひどい世代間の不公平がありますから、その気持ちはわかります。

 私は、就職活動に苦労しなかったバブル世代ですが、夫が定年となり両親の面倒を見るために故郷に帰ってきました。しかし、年金がもらえるようになるまではまだ数年あり、いろいろと苦労しています。再雇用という制度はありますが、田舎で自動車に乗れなくなった両親を放っておくわけにはいかない上に、兄弟にも頼れず、再雇用を断って帰ってくるしかありませんでした。若い方々よりは、はるかに恵まれた世代に属していますが、それでも、ぼやきたくなることはあります。

 しかし、不公平を嘆いたり、ぼやいたり、怒りの矛先をどこかに向けたりというのは、あまり建設的なことではありません。ガンディーは常に、自分の心に懐中電灯を当てなさいと、語っています。まずは自分自身を見つめ、自分の弱さやずるさを素直に認めることです。相手を非難する暇があったら、自分自身が成長することにそのエネルギーを使いなさいと勧めています。ぼやく暇があったら、やるべき行動を続けていく、そういう自分へと成長していきたいものです。

 

心の問題

 1980年代に知り合ったスウェーデン人宣教師から聞いた話ですが、その当時、自動車会社のボルボがスウェーデンの高い税率を嫌って、国外に工場を移転させたそうです。こんなことが、スウェーデン人一般の考え方になっていけば、福祉国家は維持できなくなるだろうと、この宣教師は嘆いていました。スウェーデン国民が、このように税金逃れを考えるようになると、高福祉を維持することはできません。福祉国家を維持するためには、国民一人一人が収入の半分にも及ぶ高い税率を負担することの意義を理解できる愛の人であり続けなければならないからです。税負担を嫌う人が過半数になれば、税金を下げますという人が当選して、福祉予算は削られるでしょう。従って、日本を福祉国家にしたいなら、まず日本人一人一人が福祉国家にふさわしい愛の人に、つまり、互いを思いやり、弱者に優しくできる人に変えられなければならないのです。まさに、「欲望を愛で置き換える」ことです。なぜなら、国というのは、その国民の意識を反映したものだからです。

 ですから、宗教的な心を養っていくことも必要でしょう。民主主義とは民衆教育であると、ガンディーは述べていますし、彼は1日を祈りから始めていました。スウェーデン人宣教師は「イエスの十字架にこそ、不条理に対する答えがある」と言われていました。損得を超えた生き方をしたくても、自分の力だけでは限界があります。祈りつつ神にすがることで初めて可能になるのかもしれません。ガンディー、キング牧師、マザー・テレサ・・・世の中を良い方向に導いたこれらの人々は皆、神を信じる祈りの人でした。

 エネルギーを節約したら得になるような仕組みを作ろうということが話題になったこともありましたが、例えば、お年寄りや体の不自由な人に席を譲ったら得になるような仕組みを作ればよいのでしょうか?そうではなく、率先して席を譲る人が増えれば、それだけこの社会は暮らしやすくなるはずです。つまり、私たち一人一人がどのような心をもって暮らすかということなのです。もちろん、介護や施設のバリアフリー化など、制度として必要なこともありますが、一人ひとりの心を愛で満たすことをまずやってこそ、制度も生きてくるというものです。

 

必需品の生産

 ガンディーの時代のインドでは多くの人々が餓死していました。現代の日本も悲惨ですが、それを遥かに上回る状況でした。そのようなインドで、ガンディーが人々に勧めたのは地産地消を目指す糸紡ぎでした。必需品を生産する仕事に従事しなさいということでした。

 必需品を生産する技術をこの手に取り戻すことができれば、お金に頼る度合いが減り、かなり自由度が上がります。そして、最終的には、鳥のような自由な生き方も不可能ではないかもしれません。

 

ツバメが我が家に巣を作り、巣立って行きました。

 ツバメたちはお金がなくても、自分たちで巣を作り、雛を育てていました。どうして人間はツバメのように生きられないのでしょうか? それは、必需品を生産する術を失ってしまったからです。

 ツバメの雛が巣立つ時期になると、親鳥はもう雛に口移しで餌をやることをしなくなりました。トンボを捕まえてきて、少し弱らせたトンボを雛の前で放していました。雛鳥は一生懸命捕まえようとしていましたが、飛び方がまだ未熟なために、トンボに逃げられてしまいました。この場面を目撃して、私はすごく感動しましたし、考えさせられました。

 

 ツバメの親鳥が雛に生きる術を教えているように、私たち人間は子どもたちを育てているでしょうか? 欠かすことのできない生きる術をそっちのけで、英語や数学を学ぶことを強制していないでしょうか? もちろん、英語や数学が重要でないという意味ではありません。ただ、優先順位を全く誤ってしまっているような気がするのです。

 ガンディーが必需品の生産を強調したのは、この誤ってしまった優先順位を正そうとしたからです。しかし、ガンディー思想を紹介する中で、必需品の生産を皆で分担すべきだ、どの人も肉体労働から逃れてはいけない、という話をしますと、ガンディーの言うことに従っていたら、職業選択の自由が奪われてしまうと反論される方があります。しかし、体を自由に動かせる人が皆、肉体労働に従事して協力し合うなら、大型機械に頼らなくても、1日8時間の労働で必要なものは全て、障害のある方々のために生産する分も含めて、生産できます。手仕事を取り入れるなら、障害のある方々にもできる仕事が増えるでしょう。子供や老人が手伝える余地も生じてきます。皆で働いた後、余暇をゆっくり楽しむ時間も持てます。その余暇を利用して知的労働に思う存分励んだら良いのです。頭と手足を持つ人間にとって、その両方をバランスよく使うことが自然な生き方です。

 人間の経済活動によって、資源が枯渇し、地球環境が危機に瀕していますから、本当にやるべき仕事と、実はやらない方が良い仕事を見極めることが、極めて重要です。兵器の生産など、地球のためにはやらない方が良い仕事もあります。何が本当に必要なことなのか、そして何が必要でないのか、むしろ存在しない方が良いのかを見極める叡智を人類は持たねばなりません。大量生産に必要な電気を得るために原発が利用され、事故により地下水や田畑が汚染されました。耕作放棄地がメガソーラパネルに占拠されています。これで良いのでしょうか??そして、プラスチックなど大量生産されていくものがさらに環境破壊を招き、人類の生存そのものが脅かされているとすれば、人類は愚かであるというしかありません。

 どんなに文明が進歩しても、人間は呼吸をし、食べ物を食べ、衣服と住まいを確保して生きていく存在であることは、変わりません。

 その極めて大切なことを、機械や他者にやらせてきたために、当たり前のことを当たり前にすることができなくなっています。ツバメが当たり前に巣を作り、餌をとってきて雛を育てるように、当たり前のことを当たり前にできる私たちになりたいものです。

 

肉体労働に還る

 土地を平等に分配して、農業や手仕事などの肉体労働をみんなで分担して生きていくことが、人間本来の生き方です。肉体労働によって、食物や衣類を手に入れさえすれば、私たちは、生きていくための必需品をこの手に取り戻すことができます。

 分業という言い訳で、面倒なことを他者に押しつけてはいけないのです。知的労働で肉体労働の代用にしてはならないと、ガンディーは主張しています。書物は知性を養うものですが、肉体を養うためには、米や野菜などの食物が必要です。書物だけでは、人は生きていけません。それであるならば、肉体が必要とする物は、肉体を使って得る必要があります。そして、知的労働は、報酬を求めるものではないと、ガンディーは主張します。医師や弁護士も、自分が食べる物くらい自分で農業して手に入れるようにするとよい、それが理想だと、ガンディーは考えていました。

 そして、トイレ掃除など、人がいやがるようなことや、貧しい人たちに押しつけられている仕事を平等に負担しあおうと主張しました。掃除という仕事は、衛生状態をよくして、病気の予防にもつながります。他方、医者の仕事は、病気の人を治すことです。病気を治すよりも病気にならないようにすることの方が大切ではないでしょうか? であれば、掃除は、医者よりも大切な仕事となります。誇りを持って黙々と掃除をすることが大切だと、ガンディーは目覚め、率先して掃除をする人になりました。そして、掃除をする人が、ちゃんと生活が保障されて生きていけるようにならなければなりませんし、医師や弁護士の給料は高すぎるから、抑えて、みんながそれぞれ得意なことを活かして、働いて、平等に賃金をもらう。むしろ、賃金などというお金は廃止して、食料などを平等に分け合う、これが目指すべき社会です。

 ところで、罰掃除などというひどい言葉もあります。掃除をはじめ、肉体労働を軽蔑するような教育が行われ、掃除は罰として与えられるものになってしまっています。これは大きな問題だと思います。

 

「もし道路掃除の仕事を与えられたら、ミケランジェロが絵を描くように、ベートーベンが曲を作るように、シェークスピアが詩を書くように掃除するべきだ」

キング牧師の言葉です。

 

働くことの尊厳

 掃除や、農作業、手仕事などをみんなで分担して、そのことによって食べる物、着るものなどの必需品を得るようにすれば、経済が破綻しても、生きていけるのではないでしょうか?。鳥が自分で巣をつくって、雛を育てるように、生きたらよいのです。もちろん、人間の社会は鳥ほど単純ではないですから、すべてのことを一人で全部やろうとしたら無理が生じます。だから、協力し合う人間関係は必要です。でも、それさえできれば、お金から自由になれる生き方ができ、幸せな暮らしにつながるのではないでしょうか?

 競争社会の中で見捨てられ、孤立してしまっている人が大勢います。お年寄りも、ひきこもりの人たちも、何かお役にたちたいという思いを持っていますし、お役にたてることこそが喜びのはずです。そして、会社に就職することだけが仕事ではないはずです。「はたらく」というのは、もともとは、「はた(周囲)を楽にする」という意味だったのですから。

 私たちは、「はたらく」ことの本来の意味に帰り、その尊厳を取り戻す必要があります。

 

マイ・ランチボックス

 環境を意識する方々は、マイ水筒、マイ箸を持参されます。私はそれに加えて、マイ・ランチボックスを提案したいと思います。自分が食べるものは自分で料理をすることを基本としたいのです。

 おしゃれなレストランで食事を楽しむことも、たまにはあっても良いと思います。しかし、それは、クリスマスなど、何か特別な日の楽しみにとっておきたいのです。そして、普段は、家で食事をしたり、お弁当箱にありあわせのものを詰めて出かける事を基本としたいのです。今の時代の不幸は、毎日が特別の日のようになってしまって、感動が味わえなくなっている事だと思います。そのためになんとなくつまらない思いを抱えて生きている人が大勢います。諺にもある通り「空腹は最上のソース」です。

 特別な日が特別な日(ハレの日)となるように、普段は質素に暮らし、そして質素な暮らしの中にも喜びを見出したいものです。

 そして、当たり前のことを面倒だと思わずに行うことができる私に成長したいものです。ツバメが当たり前に巣を作るように・・・

 目指すべきは自給自足だとしても、いきなりは難しいです。だから一歩ずつです。マイ水筒から始まって、マイランチボックスへと向かい、料理を日常生活に取り入れましょう。それができるようになったら、家庭菜園に挑戦してみても良いでしょう。そして、その延長で、糸紡ぎに取り組むなら、自然体で、糸を紡ぐことが日常の一コマになっていくはずです。1日30分の糸紡ぎで良いのです。そして、機織りも農家の副業だったのですから、今やっている仕事を諦める必要もありません。両立できるやり方を探れるはずです。

 面倒だ、大変だと思っていたことが、やっているうちに当たり前になる。なんでもないことになっていく、そういう体験を積み重ねていきたいと思っています。

 一人では、単調で辛い作業も、仲間とお喋りをしながらであれば、楽しい交流の場となります。孤独で辛い思いをしている人が大勢いる時代だから、仲間と手仕事に励む場所づくりをしていきたいものです。糸紡ぎ、染色に加えて、機織りも楽しめるような作業場を作れたらと、私は願っています。そのような場を作っていくことが私の夢です。

 

手仕事と心の成長 

 糸車を回すという面倒くさく、時間のかかることをしなくても、みんなで出資して機械を購入して、共同管理すれば楽にできるのではと思われるかもしれません。しかし、ガンディーは、人から手仕事を取り上げてはならないと主張しました。糸紡ぎほど、人の心を穏やかにしてくれるものはないからです。糸紡ぎなどの手仕事は、人が人として成長するにはなくてはならないものだったのです。草取りや作物を手塩にかけて育てていくことにも、同じことが言えるでしょう。自然の中で、人は多くのことに気づかされていきます。

 そして、時間がかかるということは決して悪いことではありません。私たちは、すぐに手に入ったり、すぐに目的地にたどり着けることが良いことだと思ってしまいがちですが、人生、人が最期に行きつくところはお墓でしょう。みんないつかは死んでお墓に入ります。でも、だからと言って、生まれてすぐにお墓に入りたいと思う人がいるでしょうか?人生はお墓に入るまでにどう生きたかが問われています。いろいろな出会いがあって、楽しいこと、悲しいことをいろいろ経験して、人に助けられたり助けたり、振り返ってよい人生だったなと思えることほど幸福なことはありません。ですから、目的地に早く着くことよりも、プロセスが大切なのです。

 手仕事を通して心を清めることができれば、欲望を愛に置き換えることができ、おのずと平和で平等な社会が実現できるのです。だからこそガンディーは、糸車、糸紡ぎということを独立運動の中心に据え、糸車から平和を紡ぐということを目指しました。そして非暴力とは何かと問われると、「非暴力とは糸車で糸を紡ぐことです」と語ったのです。