私を変えたガンジーの思想

            片山佳代子

かたやまかよこ
一九六二年岡山県生まれ。神戸市外国語大学英米学科卒業。四年間の教員生活ののち結婚。九三~九四年、インドで暮らす。訳書に『ガンジー・自立の思想』(地湧社)など

 『ガンジー・自立の思想』は、大型機械による大量生産システムに代表される近代文明を批判し、人が手仕事を通して自然と共に生きることの大切さを訴えたガンジーの著作です。五〇年以上前に語られたものでありながら、その内容は現在の行き詰まった日本や世界の問題のありかをくっきりと映し出しています。このガンジーの思想に出会って人生観が一変したという訳者の片山佳代子さんによるメッセージをお届けします。


◎ インドでガンジー思想に出会う

 一九九三年一月、夫の海外赴任に同行して、私は子供二人と共にインドでの生活を始めました。前年の十二月に北インドのアヨ―ディアでのモスクの破壊に端を発したヒンズー教徒とイスラム教徒との紛争が起こったばかりで、一応下火には向かっていたものの、まだまだ小競り合いが続いている時期でした。
 インドの歴史について、乏しい知識しか持っていなかった私は、インド独立がインドとパキスタンが分離しての独立であった事すら知りませんでした。私が歴史の授業で習って記憶していることと言えば、マハトマ・ガンジーという偉大な指導者に従い、非暴力・不服従という平和的なやり方でイギリスからの独立を達成したということでした。それなのに、このような争いが起こるのはどうしたことだろうという素朴な疑問が沸いてきました。
 そのような時に、たまたま書店で、「ガンジー著作集」を見かけました。チャップリンやキング牧師に影響を与えた人として、ガンジーには関心がありましたし、これを読めば独立当時の経緯が何かわかるかもしれないと思い、購入しました。
 ところが、この本では手作業で綿から糸を紡ぐという糸紡ぎに関する記述にかなりのページが割かれていました。それ以外にも玄米を食べなさいとか、衛生面に気を配りなさいなど、これがインドを独立に導いた指導者の書いたものなのかと正直言って面食らってしまいました。しかし、そこに何かあるかもしれないと、じっくりと読み進んでいくことにしました。
 当時のインドでは、大型機械によって大量生産されたイギリス製の綿布などが入ってきていたため、手工業がすたれ、多くの人々が失業し貧困に陥っていました。そのため、自分たちで棉を育て、糸に紡ぎ、機(はた)織りをして衣類を賄っていく事は重要な意味を持つ事でした。すべての人が食べるものや着るものに不自由しない生活が送れるようになることが、本当の独立であるとガンジーは説きます。近代化や工業化こそすべての悪の根源であると見抜いていたガンジーは、ですから、昔ながらの自給自足的農村社会を再建する事を目指したのです。ガンジーの思想には真実があると私は思うようになりました。
 手作業は遅れたことと思えるかもしれませんが、機械化による大量生産に成功したと言われる私たちは本当に幸せでしょうか。今の日本では物があふれるほどあり、食べるものや着るものに不自由している人はほとんどいません。このように豊かな生活ができるのは、工業化に成功したおかげであり、ガンジーの考えた事はあの当時のインドでは正しかったかもしれないが、今の日本にはガンジー思想も糸を紡ぐ道具の手紡ぎ車も必要ではないとする意見が出てきてもおかしくありません。しかし、本当にそうでしょうか。

◎ 途上国に暮らして考えたこと

 物がたくさんあればそれだけ幸せになれるという思いこみのもと、大量生産が推し進められてきましたが、大量生産は天然資源を大量に消費し汚染物質を撒き散らします。さらに、大量生産は大量廃棄を伴います。それによって地球温暖化、酸性雨、ダイオキシンなどの問題が生じており、地球環境は危機的状況にあると言われています。このような大量生産を続けていく事は不可能です。人々がそのような事に目覚めたからか、大量生産も行きつく所まで行ってしまったからか、物を作っても売れない消費不況と言われる時代になりました。この不況下、大競争時代だと叫ばれ、リストラの嵐が吹き荒れています。このような競争社会は、教育をもゆがめ、多くの人々の心を蝕んでいます。物が大量にあるにもかかわらず、人々は幸せではありません。
 しかも、私たちの物質的豊かさは途上国の人々の犠牲の上に成り立っています。インドで生活する前はフィリピンでも生活した事がありますが、そこではネリーというお手伝いさんに本当にお世話になりました。私は彼女が作ってくれるシニガンスープというフィリピン料理が気に入っていました。これは、エビが入った生姜味のとてもさっぱりしたスープです。いつも買い物に行くたびに、シニガンスープをたくさん作って欲しくてエビをどっさりと買っていました。そんなある日、ネリーは「日本人が毎日味噌汁を飲むように、かつてはフィリピンの人々もシニガンスープを毎日飲んでいたが、今ではエビが高くて、とても庶民の手に入るものではなくなった」と教えてくれました。そして、エビが高くなった理由は日本へ向けて輸出されているからということでした。日本での値段に比べれば、フィリピンではエビはとても安い値段で売られていました。それでも私たちがネリーに払っていた給料から考えれば、手が出せるものではないことも明らかでした。そんなことに思いを馳せることもなく買い物をしていた自分がとても恥ずかしくなりました。
 日本ではごく当たり前のように味噌汁を飲んでいますが、味噌の原料となる大豆の自給率はわずか三%にも満たないものです。それでも、味噌が手に入らなくて困っている人はいません。それは、日本人が昔から食べていた物も、以前は食べていなかった物も、お金の力にものをいわせて世界中からかき集めているからです。その結果、途上国では飢えが生じ、日本では農地が荒廃しています。途上国で暮らす生活の中で、このような仕組みの抱える大きな矛盾や、つけを払わされている弱い立場の人々のことがあまりにも良く見えてしまい、私は良心の呵責を感じずにこれまでの生活を続けていくことができなくなってしまいました。
 延々と続くさとうきびのプランテーションを目にしたこともありますが、車を三〇分以上走らせても一向に変わらない景色、ただただ同じ作物が道路の両側に広がり、人の気配が感じられないその地域と都市周辺のスラム街にあふれる人々の光景との格差に目を見張ったものです。この広大な土地で人々が自分たちが食べるものを生産できれば、どんなに豊かな国になれるでしょうか。さとうきびに限らず、バナナでもパイナップルでもプランテーションというのはやはり異常な世界です。そして、そのような所でできるものを自分が食べているとしたら、やはり自分にも責任があると感じずにはいられませんでした。
 インドでは水不足が深刻な問題でした。それでも、お金さえ払えば、タンクローリーでいくらでも水を運んできてもらうことができます。お金のない人々は、近くの井戸が涸れれば、遠くの井戸まで出向き水を運ばねばなりません。普段でも忙しい弱い立場の人々にますます重労働が課せられていきます。一方、インドのような日照りの続く国にいても、お金さえあれば、水不足の問題にも結構無関心で生活できてしまいます。
 今、私は日本にいて何一つ不自由のない生活を当たり前のように送っていますが、飲料水に含まれる化学物質のことを考えるまでもなく、とてつもなく危うい状態の上に現代の生活が築かれている気がします。自分の上に火の粉が降りかかるようになってから気づいても遅いのではないか。今始めなければ…そんな危機感を強くしたのが途上国で経験したもろもろのことでした。
 機械のおかげで、労働から解放されるのはすばらしいことだという幻想がありますが、人手が省かれる分だけ失業者が生じ、失業しないための競争も益々過酷なものとなっていくだけです。フィリピンでも、インドでも、お互いにパーティーに呼んだり呼ばれたりの世界だったためにお手伝いさんのお世話になりましたが、雇って欲しいとやって来る人が本当に大勢いて困ったものです。お手伝いさんを雇って自分がやりたくない事を人に押し付けていることに対する居心地の悪さも感じていましたが、友人の中には「私たちが雇ってあげなければ失業する人たちなのだから、雇ってあげるのは彼女たちに良いことをしているのだ」と言う人もいました。それだけ多くの人が仕事を求めていたのです。しかし、それでもこんなことが良いこととは思えませんでした。しかも、私たちが帰国すればそれで終わりという非常に不安定な立場の仕事です。そのような中で、糸紡ぎという安定した、立派な仕事を女性たちに提供しようとしたガンジーの取り組みに本当の解決法があるように思えました。
 自国で採れないものは欲しがるな、生活に必要なものは自分たちの手で生み出しなさいというガンジー思想を読むと、これしか解決法はないと確信するまでになりました。そして、ガンジーがしなさいと言った生き方を皆がするようにならない限り未来はないと思うまでになりました。

◎ 生活の原点を大切にする意味

 生活に必要なものを、自分たちの手足を使って生み出していくというのは、決して、庶民が貧しかった江戸時代に戻ることではありません。江戸時代に庶民が貧しかったのは、機械による大量生産が行われていなかったからではありません。重過ぎる年貢を取り立てられていたからです。インドでも状況は同じでした。ムガール帝国の時代にあっては、手紡ぎ車を廻す女性はわずかばかりの賃金を手にしただけで、その搾取された労働の産物である美しい衣装で着飾っていたのは宮殿の女たちでした。その事についてガンジーは次のように述べています。「何世紀もの間貧困、無力、不正義、強制された労働のシンボルであったチャルカ(手紡ぎ車)を今、真実の強い力、新しい社会秩序と経済の象徴にしていこうとする仕事が我々の肩にかかっています。我々は歴史を変えねばなりません」
 二年間の滞在の後インドから帰国してからは、この素晴らしいガンジー思想を日本の人々に伝えたい一心で、前述の本の翻訳を始めました。私が特にガンジーの思想にひかれるのは、食べて着るという生活の原点を大切にしているからです。平和を脅かすのは、軍隊や武器だけではありません。自分たちが何を食べ、何を着るかが世界の人々が平和に暮らしていけるかどうかに密接に関わっているのです。この大切なことを私はガンジーに教えられました。私たちは、日々の生活を送る上で多くのことを選択しています。朝食にご飯を食べるかパンを食べるかは、本当に些細なことのように思えますが、それによって日本の自給率が大きく変わってくることもまた事実です。些細な日常生活の中に、実は平和で豊かな生活が送れるかどうかの鍵があるとガンジーは訴えたのでした。
 ガンジーの場合は、イギリス製の綿布を身にまとうか、手で紡ぎ、織り上げた綿布を身にまとうかの選択でした。見栄えの良さから考えれば、イギリス製の綿布の方が良いものであったでしょうし、品質も良かったかもしれません。しかし、イギリス製の上等の布を選べば、インドの庶民が失業し飢えることになります。インドの綿をインドの道具(チャルカ)で紡ぎ、織り上げた布を選べば、それによって庶民は生活の糧を得ることができます。ですから、スワデシ(国産品愛用)はすべての人の義務であるとガンジーは説きます。お金さえ払えば何を買っても許されるわけではないことに、私は気付かされました。
 ガンジーはただ単にイギリスからの独立を求めていたのではありませんでした。イギリス人を追い払っても、その座をインド人のエリートが占めたのでは何の意味もないからです。イギリス人がいなくなった暁には、近代的工業を取り入れて、都市化したインドを築こうと主張する人々に対して、ガンジーは農村にこそ価値があると訴えます。豊かな自然そのものが富です。自分たちの畑で作物と棉を育て、衣と食の必需品を自らの労働によって得て行く生き方の中にこそ、本当の自立、本当の豊かさがあるのだと、この事こそガンジーが本当に言いたかったことです。
 さらに、多数が利益を得るために少数が犠牲になるのも仕方がないという考えをガンジーは非常に憎んでいました。ラスキンが著した『この最後の者にも』を読んで感銘を受けたガンジーは、最後の一人をも含めたすべての人の生活が向上することを目指したサルボーダヤ運動を展開します。
 「競争ではなく、協力こそ人間本来の生き方である」というガンジーの言葉に今こそ耳を傾ける時ではないでしょうか。競争社会を前提に、どうすれば競争に勝ち残れるかを考える前に、どうすれば、競争社会から、人々が協力し合える社会に脱皮できるかを考えるべきではないでしょうか。まじめに働く人なら誰でも生活が保証される社会こそ平和な社会です。ガンジーは五〇年以上も前にチャルカ(手紡ぎ車)を掲げて私たちの行くべき道を示してくれています。
 ガンジーといえば非暴力の人と言われていますが、ヒンディー語では、アヒンサー(不殺生)がこれに相当します。生きるものすべての命を同等に大切に扱うというアヒンサーの精神なくして平和はあり得ず、このアヒンサーこそ原爆にも勝る力であるとガンジーは訴えました。暴力をなくすには、暴力で対抗するのではなく、アヒンサーの精神を示すのが最も効果があるやり方です。
 また、非協力・不服従の運動だけで独立を達成できるわけではないこともガンジーが強調したことです。ガンジーは建設的プログラムと呼びましたが、農業や手工業等、国家の土台を築く活動こそ大切であると説きました。

◎ 私は自分の義務を果たすだけ

 翻訳作業中、原稿を読んで頂いた方から「経済的に糸紡ぎの意義はわかるような気もするけど、それでも人間は楽をしたいものよ。楽な生活を求めたらどうしていけないの」と指摘されました。そのことに思いをめぐらせていた時に「人の本分は労働を通して生活の糧を手に入れていくことである。すべての人が自分で服を着て、自分の手にスプーンを持って食事をするように糸を紡がねばならない」というガンジーの主張に接しました。忙しい中、台所に立つ時間が惜しいと思う日がないわけではありません。それでも自分で料理をすれば自分の好みの味付けができますし、やはり何物にも換えがたい自由と満足がそこにあると思うのです。
 お金で時間を買うことができればと思っていた以前の私から考えれば、本当に大きな変わりようです。人は真実を知ることさえできれば、変わるものだと思います。だからこそ、このガンジー思想に出会った者の義務として伝えていかねばと決意しました。
 インドはイギリスからの独立を達成することはできましたが、ガンジーが本当に求めていた庶民が豊かになる独立はまだ達成されていません。それどころか、インドとパキスタンは互いに核兵器を持つまでになってしまいました。独立前夜、暴力が吹き荒れる状況を目にしてガンジーは心を痛めますが、それでも希望を失ったわけではありませんでした。「百年、二百年後になるかもしれないが、きっと私の遺志を継ぐ人が現れるだろう、そしていつの日か人類は本当の平和を手にするに違いない」とガンジーは書いています。これを読んだ時、私はガンジーから大きな宿題を手渡されたように感じました。そして、翻訳・出版という雲をつかむような取り組みを行っていく中で、くじけそうになるときはいつもこの言葉を思い出していました。ガンジーの肉体は滅びましたが、その魂、精神は今も私たちと共にあると、私は信じています。
 出版にこぎつけるまでにはいろいろな試行錯誤もありましたし、苦労の連続でしたが、それでも、今回共同作業を行ってきた田畑健氏を始め、ガンジーの遺志を継ぎ実際にワタを育て糸を紡いでいるグループ、ワタとチャルカの会の方々など、本当に多くの素敵な方に出会うことができました。最初はたった一人で始めたことにも、こんなにも多くの人が賛同し、助けてくれたことが大きな励みとなってここまで続けることができました。ガンジーの想いは決して、その死によってなくなってしまったわけではないのです。
 私は今、ガンジーに習い畑を借りて棉を育てています。昨年取れた綿を自分の手で紡ぎ糸にする作業も行っています。衣の自給という大きな目標に向かって、一歩ずつ歩み始めたところですが、「そんなことあなた一人が頑張って何の意味があるの」とよく人から言われますが、一人でも正しいことはやらねばならないのです。寒い部屋を暖めようと思えば赤々と燃える火鉢を一つ置けば良く、火鉢がいくらたくさんあっても赤々と燃えていなければ何の役にも立ちません。「人は自分の義務をきちんと果たしていればそれで良いのだ。他人の義務までおせっかいに果たそうとするから、その結果、一番肝心な自分の義務が果たせなくなっておかしなことになってしまう」とガンジーも言っています。本当にそうだなと思います。
 ガンジーが私たちにしなさいと言っていることは、今すぐにたった一人でも始められることばかりです。ガンジーは「世界へのメッセージは?」と訊ねられたときに「my life」であると答えました。
 今、自分がガンジーの足元にも及ばない生活をしていて、他の人にああしなさい、こうしなさいという資格はありません。せめて私にできることといえば、少しでもガンジーに近づくように日々努力していくことだけです。そう考えると他の人のことが気にならなくなりました。ただ、これを読んで、ガンジーのような生き方をしてみたいと思っていただける方がいらっしゃれば、うれしい限りです。
       (月刊湧、六月号より抜粋)